陰陽説は大体500年代(6世紀)ごろに日本に入ってきたと考えられています。
陰陽五行説は中国の考え方でしたが、
それが百済(くだら:今の韓国の一部)に伝えられ、
百済から日本に伝えられました。
百済から日本にやってきた五経博士(ごぎょうはかせ:儒教の本に詳しい人)
暦博士(れきはかせ:カレンダーを作る人)、易博士(えきはかせ:占いをする人)
が伝えたのですが、しばらくすると、
陰陽五行思想に詳しいお坊さんもそれを伝えるようになりました。
その結果、日本での陰陽道は、学問・技術的なものから宗教的なものとして
日本人に受け入れられるようになりました。

どのようにして広がったの?
天武天皇(てんむてんのう:在位673〜686年)のころになると、陰陽寮(おんみょうりょう)というものが
作られました。
陰陽道を扱う人を今でいう公務員にしました。
ですから、陰陽師は国のために占いを行うなど、国の役人としての
仕事をしていました。

藤原氏(ふじわらし)が勢力を伸ばしてくると(900年頃)、陰陽師も国家に仕えるだけでなく、
力を持っている公家(くげ:朝廷に仕える身分の高い人)のために占いを行ったりするように
なりました。このように陰陽道の考え方が多くの人に知られるようになり、陰陽道の日本化が
大きく進みました。

また、900年ごろから1200年ごろの間には、陰陽道を代々行う賀茂家(かもけ)、安倍家(あべけ)が
できました。このころになると、陰陽道の形式化が進み、いろいろな迷信(めいしん)も生み出されました。
1100年ごろから力を持ち始めた武士も、公家の文化を取り込んでいく中で、陰陽道も一緒に取り込みました。
そして、幕府(ばくふ)の政権(せいけん)をたもつために利用するようになりました。
戦国時代(1500年代)には、戦国大名達は陰陽道を政治的に利用しようと考えていました。
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明治時代になると、明治政府は陰陽道を廃止しますが、第2次世界大戦後(1945)安倍家から分かれた土御門家(つちみかどけ)は
天社土御門神道として再興されました。
そして、今でも陰陽師は存在しています。
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